最上徳内(1755〜1836)探検家

1755年(宝暦5年)、現在の村山市楯岡に、貧しい農家の長男として生まれる。高宮元吉(たかみやげんきち)という名前であった。当時楯岡は宿場町として栄え、各地から産物や文人の交流があり、元吉は行商をしながらそれらから情報を得、学問をし、やがては江戸へ出て武士になることを志す。
1781年/26歳、江戸へ出た元吉は名を徳内(とくない)と改め、幕府の医管山田宗俊について医学、算術を、地理学者本多利明から測量術を学ぶ。1784年、高宮姓を最上(もがみ)と改め、幕府の蝦夷地検分使の一員として、蝦夷地にわたった。1791年には普請下役の武士となり、1798年、幕臣近藤重蔵らと千島を探検し、エトロフ島に「大日本恵登呂府(だいにっぽんえとろふ)という標識をたてた。それから1810年まで徳内は9回にわたって北方探検にあたり、著書に「えぞ草紙」ほか。1836年、江戸で死去。82歳であった。

最上徳内記念館