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斉藤茂吉は、明治15年5月、蔵王山麓金瓶村に生まれた。
14歳の夏、斉藤紀一をたよって上京、医学の道に進み、後に婿養子となった。旧制一高在学中、子規遺稿『竹の里歌』に感銘、作歌を志す。大正2年歌集『赤光』を刊行、詩歌の世界に茂吉の名を高めた。
『赤光』によって歌人の地位を確立した斉藤茂吉は「一本の道とほりたり」とうたう。そして医学と短歌の二つの道を選びヨーロッパに留学。帰国後、青山脳病院の火災復興に力を尽くした。プロレタリア短歌や象徴主義と激しく論争し、日中戦争、太平洋戦争には愛国の心情を戦争の歌に詠んだ。家庭生活上のかなしみに堪え、『柿本人磨』の研究に打ち込んだ。
昭和20年4月、斉藤茂吉は戦火を逃れて、故郷金瓶に疎開し、ここで終戦を迎えた。翌21年1月末大石田に移ってまもなく、3カ月におよぶ病臥の日々をおくった。敗戦の深い悲しみ、病床での孤独感などは、みちのくの風土と、周囲の人々のあたたかいまごころにつつまれて、茂吉の詩情は高まる。
戦時下抑圧されていた歌壇も、終戦とともに新しい歩みを始めた。一方では短歌否定論があいつぎ、それが歌人をふるいたたせる結果ともなった。昭和28年には、斉藤茂吉が亡くなった後に、茂吉と同時代の土屋文明に続いて多くの新人が台頭してきた。 |
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