駒姫(1577?〜1595 ) 豊臣秀次側室 

名を駒姫という。「今姫」 「お今の方」 「伊満の方」ともいわれる。

天正19年(1591)奥州太閤仕置の帰路、のちの関白、豊臣秀次は山形に

立ち寄った際に、歓迎の宴の席で

義光に「是非、駒姫を侍妾に」と所望する。

義光は承知しなかったが、時の権力者である秀次に何度も催促され、

断りきれずにやむなく駒姫を京都に連れて上った。

しかし文禄4年(1595)7月15日、秀次は謀叛の疑いをかけられ、

豊臣秀吉の命で高野山に送られ、切腹させられてしまう。

一説には、秀吉に後継ぎの秀頼が生まれ、秀次が邪魔になった

ともいわれている。

そのあおりを受け、同年8月2日には、秀次の子弟や妻妾ら30数人が

京都の町中を引き回され、三条河原で処刑された。

その中に上洛して日の浅い駒姫の姿もあった。

義光は、かわいい娘のために八方手を尽くした。

家康にも頼み、秀吉に駒姫の助命を願い入れたが、聞き入れられず

駒姫は処刑されてしまった。

以下は京都三条瑞泉寺に残る駒姫の辞世の歌である
罪をきる弥陀の剣もかかる身のなにか五つのさわりあるべき
「何の罪もない私なのですが、こうして斬られてあの世に

いくのは、弥陀の慈悲の剣で引導をわたしていただく思いです。

なぜって、こうしてこの身の業の深い五障の罪も、

いっしょに消えていくのですから」という略である。



駒姫は殺される直前でも、生家最上の無事を祈りながら

斬られていった。駒姫もまた、戦国の世に生まれ、己の

運命を受け入れた強い女性であった。

義光のくやしさ、悲しさ、恨みはどんなものであったろうか。

のちの関ヶ原合戦で、義光が西軍につかなかったのは、

この事件も関係しているといわれている。

駒姫は15歳とも、19歳ともいわれる若さで生涯を閉じた悲劇の女性であった。

義光は専称寺を駒姫の菩提寺と定め、弔った。

専称寺には駒姫の居間だったといわれる山形城内の

建物が移され、現在も面影が残っているという。