本間宗久

相場の神様とまで讃えられ、不朽の名声を博した本間宗久は享保九年(1725年)日本屈指の穀倉地帯・出羽にて生まれた。八代将軍吉宗の治世である。
 二十三歳にて酒田の豪農・本間家の養子となり、そのとき名を宗久と号した。
 後の本間三代当主・光丘が十六歳の時である。そのとき光丘は宗久を「兄」と呼んでいたので、光丘の姉婿と云う説が主流となっている。
 この類い希な才に秀でた兄宗久、統治に優れた弟光丘の二人により、本間家の財力は一桁も二桁も強大となり、名門本間家の事実上の創始者となる。
 宗久の米相場での戦いぶりは常勝不敗、変幻自在な仕掛けと、徹頭徹尾理性に貫かれた相場道の確立により、相場の神様とまで讃えられ「出羽の天狗」との異名をとった。
 上方を争覇した宗久は後に江戸蔵前に出で、その圧倒的強さは他を寄せ付けず、江戸の米穀問屋を震え上がらせ、文字通りその名を不動の物にした。
 後に彼は本間光丘とともに「御勝手御用掛」に命じられ、さらには相模守を任ぜられ、武士としても上流の格式を持つ名誉を得る事になる。
『酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る。本間さまにま及びもないが、せめてなりたや殿様に』
 との唄として活躍は残り、当時の権勢と羽振りが偲ばれる。

 その宗久の戦法は
 年々の記録を集積し、作柄の豊凶など、需給の分析を最重要視する、いわばテクニカルの始祖。
 決断面に優れ、勝負としての急所を始めて近代的に、今で言う統計学的手法にて極めて冷静に判断する一方、天底の勝負は苛烈を極め、勝利を不動の物とした。この様に経験と果敢な決断は、現在誰にでもデータと分析、その蓄積によって宗久翁に限りなく近づくことは可能である。
 ゆえに万人に応用が利くため、残された三位伝は良質な古典としての風貌を今なおとどめ、現在も相場のしるべとして活用されている。